内田 樹 twitter。 内田樹『日本の反知性主義』が酷評されまくる理由(1ページ目)

(内田樹:大阪万博批判)橋下氏「この内田は大阪市特別顧問だったのに(負の遺産に)何もしなかった。文句を言うなら他の案を提案してみろ」11/24のツイート

内田 樹 twitter

私の感想は、さすが著作も多いし、読みやすくてわかりやすい文章だなあ(ところで、わかりやすい言葉と構造で世界を一面的に語ることに警鐘を鳴らしていたのは誰だったかなあ……)くらいだった。 その日の昼間、台所でスパゲティーをゆでているときに、電話がかかってきた。 慌ててコンロの火を止め、電話に出ると、 永沢さんだった。 永沢さんは大学の寮の先輩にあたる。 昔からよくお世話になっていた。 今はフランスの大学院で政治学の研究をやっていると聞く。 コロナで外出禁止令が出ているから、論文を読んで書いての毎日らしい。 久しぶりに話した永沢は激昂していた。 内田樹が、事実の中にうまく嘘を隠して、読者を騙そうとしていることにブチ切れていた。 丁寧なトーンで危機を指摘しながら、ありもしない不安を煽ろうとしていることにマジ切れしていた。 そして、日本人の多くが、内田樹の言葉に頷かされていることに、胸を痛めていた。 僕は以下に要約する。 学者としての彼が露わにした怒りと、抱えこんだ悲しみについて、僕が代わりに記しておく。 彼の心は今それどころではないだろうから。 永沢さんの感じている・考えていることすべてを捉えるのは僕には難しい。 僕らの共通の友人が自殺した時だって、彼はいたって冷静に見えた。 だから以下に記すのは、あくまで、僕が理解できた範囲での要約になる。 彼は電話口で、だいたい次のように語った。 内田樹が発信する4つのフェイク アラン、 内田樹のあの文章は、悪い意味で、よくできている(注: アランというのは僕のことだ)。 あの記事を読んでスカッとしてるやつ、現実に対する認識を改めている奴がたくさんいるだろう。 安倍が民主主義を壊そうとしてると思ってる奴らがいるだろう。 いいか、民主主義を一番に壊すのはそいつらだよ。 思考停止した有権者だ。 衆愚政治とかファシズムっていうのはそういう奴らからスタートするんだ。 内田樹は、ファクト(事実)の中にうまくフェイク(意図的な嘘)をはさみこんで、バレないように、読者を刺激している。 あれには大衆を煽って、国をヤバい方向に持っていく才能がある。 デマゴーグの才能があるなら政治家になった方が良い。 だいたいブログのタイトルが「内田樹の研究室」ってなんだよ、内田樹は博士号さえ持ってないんだぜ。 「俺はこう思う!」って勘だけで「研究」ができるわけないんだよ。 無理にとは言わないが、論文のひとつでも書いたらどうなんだ?まあ、処女作の『ためらいの倫理学』あたりは、勘が冴え渡ってて、悪くはなかったけどな。 内田はこう言ってる。 安倍政権においては、主観的願望が客観的情勢判断を代行する。 「そうであって欲しい」という祈願が自動的に「そうである」という事実として物質化する。 安倍首相個人においては、それは日常的な現実なんだと思います。 皮肉だよ。 祈願を物質化させてるのは内田の方だ。 あの文章はな、 「コロナ後の世界は様変わりするとしたら、それは安倍政権とトランプのせいであってほしい」という内田の祈願(妄想)が、自動的に「コロナ後の世界は様変わりする。 主に、安倍政権とトランプのせいで!」という事実として物質化したものだ。 そこに混入しているイデオロギーを見抜けなければ、まんまと俺たちの民主主義は崩壊させられてしまう。 なぜか。 「民主主義の危機」を煽る内田樹は、その危機の原因を、 日本がこうなってしまったことの「 現実のプロセス、経緯 」の全てを無視して「ぜんぶ 安倍政権が悪い」としようとしているからだ。 もちろん安倍が悪くないとは言わない。 文中に出てくる通り、憲法をめぐる問題は日本人にとって重要なターニングポイントをもたらすだろう。 しかしそれとは別問題として「こうなったのもぜんぶ無能な総理のせいだった」と結論づけるのは、 読者に「君たち有権者は反省しなくて良い、悪いのはぜんぶあいつだ」と言っているようなもんだ。 その態度こそが民主主義を軽視している、危機に向かわせているとどうしてわからない? 長い月日をかけて、俺たち日本人はこうなるように進んできたんだ。 安倍はたまたまその終盤に位置していたにすぎない。 本当に民主主義を機能させたいのなら、まず内田樹が反省を促すべきは、有権者である国民であり、読者だ。 それを、安倍という嫌われ者をスケープゴートにして、その論拠にフェイクを混ぜ込むなんて、最低だよ。 具体的に行こう。 内田樹は少なくとも4つのフェイクを意図的に発信している。 これがまた、事実(ファクト)とセットで語られているからもっともらしいんだ。 「国際協力体制は中国が指導する」はデマ。 でも、トランプは秋の大統領選までのことしか考えていないけれど、習近平はこれから5年先10年先の 地政学的地位を見越して行動している。 短期的には「持ち出し」でも、長期的にはこの出費は回収できると見越して支援に動いた。 この視野の広さの差がはっきりした。 コロナ禍への対応を通じて、中国は国際社会を支える能力も意志もあることを明示し、アメリカは国際社会のリーダーシップを事実上放棄した。 コロナ禍との戦いはこれから後も場合によっては1年以上続くかも知れませんが、アメリカがどこかで軌道修正をしないと、 これ以後の国際協力体制は中国が指導することになりかねない。 中国は地政学的な拡大を試みている、そして 中国はコロナを機に覇権を握る、と内田樹は言う。 前半がファクト、 後半がフェイクだ。 確かに、中国は地政学的な拡大を試みている。 しかしな、そんなことは国際社会の全員がわかってる。 全員が警戒してるんだ。 中国の台頭を許すことは、国際的な民主主義体制を瓦解させることと同義だからな。 じゃあ一体誰が、マスクを売ってくれた程度で、中国に「地政学的な覇権」を許す?「いま頼りになるのは中国だけだ」と語ったイタリア人の知り合いがひとりいたのは結構だが、民主主義はひとりの声で決まるわけじゃない。 (だいたいそんな奴本当にいたのか?ひょっとしてリベラル界隈の「お友だち」か?) しかし「地政学」って言うワードチョイスがいいね。 高尚かつグローバルだね。 あのな、中国の拡大志向とアメリカの自国重視志向は、コロナ前からずっとなんだよ。 コロナを機に国際政治が始まったと思ってないか?あのな、お前が思うもう少し前から国際政治はあるんだよ、内田。 「説得力のあるメッセージを発信するリーダーを模範とすべき」はデマ。 自分の言葉で、現状を説明し、方針を語り、国民に協力を求めるということができない。 それには比すべくもない。 欧米のリーダーは演説が上手い、そして 演説が上手いとリーダーは模範、と内田樹は言う。 前半がファクト、 後半がフェイクだ。 イギリス・ドイツ・ニューヨーク、確かに彼らの演説は上手い。 エネルギーを感じる。 かといって参考事例にすべきかどうかは別だ。 どの国・地域も、日本より、桁違いに悲惨な状態にある。 リーダーの仕事は人々にそれっぽいスピーチをすることじゃない(大衆にすり寄ってTwitterをすることでもない)。 リーダーの仕事は結果を出すことだ。 イギリス・ドイツ・ニューヨーク、どこかひとつでも、感染を食い止めるのに日本より成功した国があるか? それともあれか? 内田樹はまさか、海外の政治家たちが、話す内容を自分で考えてると思ってるのか?「安倍首相は官僚の書いた作文を読み上げることしかできない。 自分の言葉で、現状を説明し、方針を語り、国民に協力を求めるということができない。 」って言うけど、あのな、 メルケルもボリス・ジョンソンも、話の内容はスピーチライターが考えてるの。 良いスピーチを考えてるのは政治家じゃないの。 国民に語りかけているような気がした?うん、それは文章を読むのが上手いのと、演出が上手いだけだな。 よし内田、お前がそこまで「上手なお話」ができるやつにリーダーをさせたいんなら、 ボディランゲージの得意だったちょび髭でも呼んでくるか?? とはいえ気持ちはわかるよ。 あまりに滑舌が悪いリーダーの言うことに耳を傾けようとは思えないもんな、ほら内田、お前は昔からすぐ人を印象で判断する奴だったから。 「政治家や役人は感染症用の医療準備を無駄だと思って、カットした」はデマ。 そして、何年かに一度パンデミックが起きて、ばたばた人が死ぬのを見て、「どうして備えがないんだ?」とびっくりする。 リスクヘッジは大事である、そして 政治家や役人は感染症用の医療準備を無駄だと思ってカットした、と内田樹は言う。 前半がファクト、 後半がフェイクだ。 リスクヘッジは極めて大事だ、余裕があれば色々な備えができるのは当然である。 しかし我々は覚えているだろうか、 「無駄」の削減を行ったのはどの政権?民主党政権だ。 民主党政権を選んだのは誰?国民だ。 おめでとう!民主主義は機能している!医療準備を「無駄」だというジャッジを下したのは我々国民だ。 政治家と官僚はその鏡にすぎない。 政治家や官僚を叩くのが楽しいのはわかるが、内田が責任を問うべきは国民じゃないか? ところで内田は立憲民主党の公式パートナーだったよな?立憲民主の政治家はどうだ?民主党政権時代によく見た面々が揃ってる気がするが……。 でもお前に金を払ってパートナーになってもらってるってことは、彼らは「無駄」にお金を払うにようになったんだな、今は。 良かったじゃないか。 「わずかな国富を少数の支配階層が排他的に独占する」はデマ。 ネポティズム(縁故主義)がはびこり、 わずかな国富を少数の支配階層が排他的に独占するという、これまで開発独裁国や、後進国でしか見られなかったような政体になるだろうと思います。 森友問題、加計問題、桜を見る会などの露骨なネポティズム事例を見ると、これは安倍政権の本質だと思います。 独裁者とその一族が権力と国富を独占し、そのおこぼれに与ろうとする人々がそのまわりに群がる。 そういう近代以前への退行が日本ではすでに始まっている。 経済的に大きな影響がある、そして 自立した資本家は滅び、途上国のように少数の支配階級が富を独占する、と内田樹は言う。 前半がファクト、 後半がフェイクだ。 当然、コロナの影響は今後経済に拡大していく。 彼はその結果として、支配階級である大企業だけが残り、自立した資本家である小さな企業が滅ぶことで、日本の中産階級がいなくなってしまうと主張している。 では実際、適当なホラを吹くのではなく数字を見てみると、大企業や中企業はどれくらいの規模なのだろうか、経産省によれば。 大・中企業の雇用者は3500万人程度で、小企業の雇用者は1000万人程度だ。 つまり、日本の中産階級は彼の唱える自立した資本家ではなく、大・中企業の安定した雇用によって支えられている。 内田は文士であり活動家なので(柔道家でもあるんだっけ?)企業勤めの人たちとは接する機会もないんだろうが、コロナの影響で日本が独裁国家になるというのは、明らかな極論だよ。 この国の中産階級を支えてるのは大企業なんだ。 しかし「階層」を持ち出すのはいいよ、内田。 バカはすぐ階層の闘争で義憤に駆られてRTしちゃうからな。 なあ、日本人を一番馬鹿にしてるのはお前なんだなって、お前の言葉遣いを見てると、そう思うよ。 お前は昔からそういうところがあった。 言葉巧みに、人を気持ちよくさせるのが得意だった。 才能がこういう風に活用されるのは、残念だよ。 Epilogue 政治ポルノとしての内田樹 内田のついている嘘の中で何よりも一番ひどいのはこれだ。 「新型コロナウイルスがもたらす変化によって、民主主義は死にかねない」。 そりゃ、憲法をめぐる問題は確かに残るが、何よりも、お前みたいな アマチュアの妄想したフェイクニュースに感銘を受けて、ありもしない未来像を描いて、 極端な 思想を抱いた人間の群れが、民主主義を殺すんだ。 内田、聞いてるか?お前が好きなレヴィナスの言葉で借りれば、内田樹の主張する正しさの「全体性」が主体を奪い、尖兵たる保健隊が、他者へ暴力を振るうことを許容させるのだ。 わかるか?ちょっと難しすぎたかな? アラン、俺の言ってることは間違ってるかい?内田樹は聴きやすいフェイクを垂れ流すデマゴーグじゃないかい? 学者を自称するなら、虚実ない交ぜにして人々の不安を煽るより、現実世界を良くするための研究を行うべきじゃないのか?俺みたいに引きこもれとは言わないさ。 でもいくら何でも、 今の内田は、ただ「安倍叩き」がしたい人たちにとって都合の良いアイドルになりすぎた。 あんなもの政治ポルノだ。 なあ、あいつはいつからああなっちまったんだ。 俺たちはどうしてこうなっちまったんだ? 僕は電話を切った。 何を言ったらいいかわからなかった。 永沢にも冷静になる時間が必要だ。 その時にまた話せばいい。 鍋の中のスパゲティーを味見すると、張られたばかりのスタインウェイの弦のように、アルデンテだった。 やれやれ、と僕は思った。 参考書籍.

次の

内田樹『日本の反知性主義』が酷評されまくる理由(1ページ目)

内田 樹 twitter

周りにいる大人がみんな違うことを言うなかで子どもは葛藤し、自立する 兵庫県神戸市にある「凱風館」は、思想家・内田樹さんの自宅兼合気道の道場でありながら、子どものための能楽教室やマルシェといったイベントの拠点になるなど、いま地域のコミュニティとしてその機能に注目が集まっています。 本書『困難な子育て』は一貫して、子育てが難しい今の状況を悲観することなく、だからこそ「子育てを楽しもう」という気分をつくりながら、この国の「子育てのかたち」と「その営みの本質」に迫ります。 そのコミュニティづくりの中心であり、同書の監修を務める内田樹さんに、話を聞きました。 それは、どんな「力」ですか? 「集団として生きる力」というのは、集団の中のどこが自分のいるべき場所で、その中でどんな働きを自分は果たすべきかを知る力のことです。 凱風館の場合、何もない空間ですけれど、小さい子どもたちをこの空間に放り出すと、大喜びして駆け回ります。 でも、そうやって遊びながら「集団として生きる作法」を学習しているんです。 みんなと呼吸を合わせて一緒に笑う、人の動線を塞がない…そういうことが集団行動の基本になります。 武道では「座を見る」という言い方をしますが、これは与えられた空間における自分のいるべき位置を知ることです。 頭で考えることではなく、皮膚で感じることです。 いるべきではないところにいると、身体的なノイズが聴こえるはずなんです。 そのノイズが消えるように位置を移動する。 武道ではこれを「触覚的に空間認知する」というふうに言ったりしますが、「いるべきところ」と「いるべきではないところ」の識別はときには死活的に重要なことですけれど、頭で考えてもわからない。 身体感覚を研ぎ澄ますしかない。 凱風館には少年部があり、4歳から合気道を習うことができます。 入ったばかりの頃は、「はい、座って」と言っても、どこにいればいいか分からない。 ダマになったり、列を崩してバラバラになったりするんですけれど、2年3年と稽古をしてゆくと、その時の人数に応じて、列を作ったり、一人一人の間の間隔を調整したりできるようになります。 俯瞰的に、自分自身を含む風景を見下ろすことができるようになっている。 これは合気道の技がどうこうという以上に、大切なことだと思います。 適切な空間認知ができるようになった。 自分と自分の仲間たちが「どこで、何をしているか」を俯瞰で見下ろすことができるというのは、とても大切な社会的能力です。 というよりも、それができないと社会生活は始まらない。 個人としての能力がどれだけ高くても、集団の中で自分がいるべき場所、果たすべき役割がわからない人は他者とコラボレーションすることができないからです。 ですから、小さい頃から、集団の中に身をおいて、子ども同士身体を触れ合いながら、転げ回って遊ぶことはとても大事なんです。 また、親離れ、子離れが難しいとも指摘されますが、子どもの自立には何が必要でしょうか。 子どもができるだけたくさんの大人と関わりを持ち、できるだけ多様な考え方やふるまい方に触れるようにすることだと思います。 母親も父親も、学校の先生や、周りにいる大人たちがそれぞれ違うことを言っている中で子どもは葛藤し、葛藤を通じて自立する。 周りの大人たちが同一の価値観である環境が子どもの成長には最も有害です。 「可愛い子には旅をさせろ」と言いますが、その通りだと思います。 思春期になったら、家という閉じられた文化圏から外へ送り出して、いろいろな経験をさせることが子どもの自立の道です。 子育てしたからといって、いきなり人間的に大きく成長できるわけではありません。 それは世の中を見渡しても分かります。 幼児的な親はいくらでもいますから。 経験から何を引き出すかは一人一人違います。 同じ経験をしても、それで成長する人もいるし、しない人もいる。 ただ、子育てには驚くべき発見があるのは確かで、それらは本を読んだり、人から話を聞いて知ることとはレベルの違うリアリティーがあります。 僕の場合は、ずっと、子どもが苦手でした(笑)。 よその子どもを見てもとくに「かわいい」とも思わなかったし、子どもの方も僕にはなつかなかった。 だから、自分の子どもが生まれる時も「うまく愛せないんだろう」と思ってました。 でも、妻や家族の手前、「愛してるふり」「可愛いと感じてるふり」をしなきゃいけない。 妻はそういうのをすぐに見破る人だから、「本当はこの子のこと、愛してないんでしょ!」とずっと言われ続けるんだろうな…と思ってました。 案の定、生まれた瞬間に看護婦さんに「抱いてあげてください」と言われて困り果てました。 抱きたくなんかないので。 いま、手が滑ってこのタイルの床の上に赤ちゃんを落としたら、どれくらい怒られるだろうと思うと怖くてしようがない。 だから、3秒くらい抱いて、すぐに看護婦さんに戻しました。 でも、不思議なもので、生まれて3週間くらい経ったころかな、ある日溢れるような愛情がこみ上げてきて、「なんて可愛いんだ!」と。 明らかに内分泌系の異常が起きたんです。 「この子のためだったら死んでもいい!」と思えた。 心理学者の岸田秀さんは「人間は本能が壊れた動物だ」と言われてますけれど、「壊れている」だけで、本能が「なくなった」わけじゃない。 それは自分の中に制御不能の「父性愛」が噴き出したときに実感しました。 たしかに、親は時として自分を犠牲にしても子どもを守らなきゃいけない。 DNAを次世代に伝えなきゃいけない。 それはたしかに生物としては合理的なふるまいなんです。 子どものためになら死んでもいいというような「異常な」感情が発動して、僕はそれに支配された。 子どもに対する愛なんて、親が自己決定できるものじゃないということを、その時知りました。 自分の意志で子どもに対する愛情はコントロールできないということは、実際に子どもを持ってみないと分からないです。 僕の場合は、その後離婚して、父子家庭で娘を育てることになりました。 2人でしばらく生活するうちに、父子家庭ではなく、母子家庭になるしかないということに気がついた。 幼い子どもと二人で暮らす場合、「父の仕事」って、ほとんどないんです。 「母の仕事」しかない。 だから、父親をやめて、母親になることに決めたんです。 娘との12年間のふたり暮らし。 洗濯して、アイロンをかけて、清潔な服を着せて、天気のいい日はお布団を干して、暖かい布団に寝かせて…という子どもの基本的な生理的欲求を満たすことが、僕がここで言っている「母の仕事」なんですけれど、それを丁寧にやっていたら、もう一日が終わっちゃうんです。 「父の仕事」の出番がない。 僕が作ったご飯を子どもがぱくぱく食べているのを見ると、それだけで安堵して、「勉強しろ」とか「宿題やったのか」とか、そんなよけいなこと言う気にもならない。 生きてくれていれば、それでいい。 一般的に父親というのは子どもに対して「生きていれば、それでいい」では済まないんです。 何か余計なことを期待する。 子どもを社会化することを自分の義務だと思ったりする。 でも、母親は違います。 子どもの生存のための基本的な欲求を満たすのが主務なわけですけれど、母親をやっていると、それだけで一日分のエネルギーは使い果たしてしまいます。 それ以上のことなんかする余力がない。 母親は子どもの衣食住の基本欲求を満たすことができればいい。 夜寝る時に子どもが生きていれば、もう「100点ゲット」なわけです。 勉強ができようができまいが、友だちがいようがいまいが、そんなことはとりあえず副次的なことに過ぎない。 父子家庭になって、母親としての仕事をするようになって、初めて母親の満足を経験しました。 これは父親の仕事を果たすことの満足感とは比べ物にならないと思いました。 結局、父子家庭は12年間続きましたが、僕はあれは「母子家庭」だったと思っています。 うちの娘には、18歳になったら家を出るように早くから言っておきました。 あとは自立してやってくれ、と。 どこでどういうふうに暮らそうと、それは君の自由だよ、と。 娘は大学に行かずに、東京でバンドやったり、古着屋やったり、ぶらぶらしていたんですけれど、30歳過ぎてから「フランス語がやりたい」のでアテネ・フランセの授業料を出してくれと言ってきました。 もちろん、ほいほい出しました。 別に娘だからというわけじゃなくて、僕の家に出入りする若い人たちを支援するのと、それほど違うわけじゃない。 若い人の市民的成熟を支援するのは年長者の義務ですから、娘が知性的に成長したいと言って来たら、全力で支援します。 僕は若い人には優しいんです(笑)。 インタビューを受けた方々と、内田樹さんが、少子化時代の今の日本における「子育てのかたち」について語り合ったフォーラムの内容も収録する。 「余裕がないからできた、集まり、つながり合える『場』」「我が子と自分と、ダブルで生きる人生としての『子育て』」など、新たな地域コミュニティである凱風館の子育てのかたちを紹介。 成功も失敗もないはずだけど、どこかうまくいかない、本当にこれでいいの? など、子育てにおけるモヤモヤを抱えている人にとってヒントとなる言葉が詰まった1冊です。

次の

内田樹

内田 樹 twitter

やまもといちろうです。 それなりに本を読むほうで、最近は世界史に改めて手を出してから移動中の読書量がハンパなく増えた割に、日々の生活での実益があんまりなくなってしまいました。 ところで、フランス思想で一定方面に著名な 京都精華大学の客員教授・内田樹せんせが先日上梓された『日本の反知性主義』が、あまりにも酷いという言説がありまして。 まずは山形浩生せんせの書評に、東京大学准教授の池内恵せんせが呼応する形で罵倒芸が繰り広げられており、これはなんだと思うわけです。 池内さんといえば、わが国のアラブ研究家の中でも気鋭の論客の一人であり、先日のISIL(というかイスラム国というか)の問題においても、非常に重要な示唆となる内容を踏まえた知識を披露しておられまして、何冊か本を読む中では信頼できる知識人の一人なのではないかなと思います。 山形さんも在野の中では翻訳からネット論考まで幅広く活躍してこられた一人であり、最近ではピケティ本の翻訳や関連書籍なども担当しておられるという点で、どちらも日本の第一線級の人材です。 かたや、内田樹せんせも国内の論壇方面では様々な分野に言及して多くの日本人に刺激を与えてきた人物の一人で、信奉者も数多く、一定の影響力を持っておられる知識人とされています。 全部ではないけどそれなりに内田せんせの文章を読んできた私としても、好き嫌いはともかく、抑えておくという感じのポジションであることは間違いありません。 以前から、池内さんは内田さんの議論を理路整然と馬鹿にしているので興味を持って見てきたのですが、今回はもっと具体的に、本質的なことが指摘されています。 以前の論考は、思想家内田樹の「思想」は実は思想でもなんでもない思いつきに過ぎず、その話を聞きにいってありがたがって記事に掲載しているメディアも馬鹿なんじゃねという内容だったのが、今回の『日本の反知性主義』ではさらに踏み込んで論難している姿が印象的です。 個人的には、この内田せんせと思想家(レーニン研究)で京都精華大学の白井聡さんの共著である『日本戦後史論』があまりにも微妙だったため、この『日本の反知性主義』は見送っていたんですが、ここまで酷評されているということは何か面白いものがあるに違いないということで、買ってみたんですよ。 根拠に基づいた議論が分かっていない!? 拝読して感じたことは、まあ山形浩生さんが言い尽くしていたので繰り返しここに書くのも気が引けるのですが、私としては内田せんせは「エビデンス・ベースド」、つまりデータなどの根拠に基づいた議論についてはあまりきちん分かっていないんだろうなあというところがすべてだと思います。 簡単に言えば、内田せんせは現代のデータも用いた議論についていけてない。 ある意味で、内田せんせというのは鋭利な知性であり直感で物事を感じ、そこから論じ抜いて人々に新たな思考の地平線を見せる、というのが「芸」であります。 これはこれで、それ一本でやってきたようにも見える内田せんせの凄さであり、伝統芸能なんですけれども、さすがにこのご時勢、リベラルとは何かとか、貧困や高齢化社会という先の見えない問題に取り組むべき時期において、感覚や感情に基づいた捏ね繰り回した論説は、説得力を失ってきていると言うことなんだと思うんですよ。 「反知性主義」という言葉の定義や、すでに空洞化した概念だというレトリックはもちろん考えるにしても、現場で政策を論じたり、具体的な問題について取り組んでいる一線級の人たちにとっては、内田せんせの論ずるような「べき論」「である論」というのはノイズが多すぎて、自分の立場や仕事に置き換えたとき役に立たないか、ピンとこなくなっているのだろうと感じるわけです。 大上段に言うならば、池内せんせがFACEBOOKに文字通り書かれていたような「なんでまともに議論もできない『大学教授』が量産されたかというと」というパラグラフがすべてを表しているように、内田樹的なるものはおおよそ日本社会が右肩上がりで、豊かで問題を時間が解決してくれた時代の産物であることが良く理解できます。 内田樹的なるものが無用かどうかは見る者読む者が判断すればよいとしても、少なくとも社会時評やその底流にある思想を解き明かそうというところです。 一定層にはジャストフィットも…… しかしながら、内田せんせが著書で「数学における『予想』の存在が示すのは、平たくいえば、人間には『まだわからないはずのことが先駆的にわかる』能力が備わっているということである」と記したとき、読者は「ああ、この内田さんという人は数学がまったく分からないのに数学を論じるタイプの馬鹿なんだな」と思ってしまうだろうということです。 上記の池内せんせの内田樹批判も、おおよそ「知らない分野を分かったフリして論ずるな内田」成分と「論じることもまともにできない内田を崇め奉る大学もメディアも読者もいい加減にしろ」成分とが混ざっているように思うわけです。 おそらくは、その根底には内田せんせにおいては拭い去れない時代感(たいした研究者でなくとも大学が新設されポストが増えていったのでそれらしい肩書きをもらえていた右肩上がりの時代)から、いまの日本人や日本社会が抱え背負う苦労を見下した論難の仕方が、一定のマゾい読者や反権力的思考の持ち主にはジャストフィットして産業として成り立っている、ということなんじゃないかと。 内田せんせから学ぶべきことは、間違いなく「ああ、あれだけ俊英な視点を持っていた人でも、時代に取り残されるとこんな感じになっちゃうんだな。 私もそうならないようにまじめに日々勉強しよう」ということなんじゃないかと思いました。

次の