愛する という こと。 愛するということ 新訳版

エーリッヒ・フロム「愛するということ」要約・まとめ

愛する という こと

【愛するということ】愛とは?恋とは?愛に必要な条件とは?(エーリヒ・フロム著)【内容と感想まとめ】 ようこそ!皆さん、こんにちは、とらよし です!今日は エーリヒ・フロムの著書 《愛するということ》のお話をしたいと思います。 私は家に偶然この本があったのですが、もともと知ったのはNHKのという番組です。 それを見てから是非読んでみたいと思っていたら偶然家の本棚の奥から発見しました!正直に言って 衝撃的な内容でした。 愛するということについて、それがいったいどういう意味を持つのか深く考えさせられました。 今回は 愛や恋の違いについて、また愛するということがどういうことなのか、本の内容を取り上げながら進んでいきたいと思います。 時間の無い方は最後にまとめを用意しているのでそちらも読んでみてください!それではいざ、愛の世界へ! 【愛するということ】エーリヒ・フロム著 この本の中でまず述べられているのは 愛の定義についてです。 近年、我々はドラマや映画などで現れる、世間一般的で使われる 「恋」が、 「愛」と区別なく使われ、その境目がなくなってきていると述べています。 なぜ「真実の愛」だと思って結婚したはずなのに、結婚して数年後にはお互いが愛し合っていると言える夫婦が少ないのか? その理由をフロムは、 「恋」だけをして結婚した結果、 「愛」が見落とされているからだと言っています。 では一体、フロムの言う 「愛」というのは何のことなのでしょうか? 「恋」と「愛」の違い(恋とは何か) 世間一般に出回っている恋愛本の多くは、 「どうすれば他者から愛されるか」ということについて述べられています。 それは、 「人から愛されるためのスキル」、「どういう人が自分を幸せにしてくれるか」ということの知識などです。 確かにこれらのことは 「恋」においてはある程度意味があることかもしれません。 フロムの考えでは、 「恋愛」は 未熟な人間でも、 本能的な側面で行うことができます。 また、もし相手に不満があれば別れることができますし、仮に喧嘩したとしても再び仲直りすることもできます。 これは、 「相手が自分に」もしくは、 「自分が相手に」、何らかの価値を感じているのであれば「恋」をしたまま付き合っていけるという意味です。 しかし結婚となると、そのパートナーと起こる様々な課題や、あるいは子どもについてのことなど、数多くの困難を共に乗り越えていかなければなりません。 人から「愛される」だけの受動的な態度しか取れない人間は、そのときに不平・不満を口にして問題を複雑にします。 更に述べると、生物的に恋愛感情というものは3~4年ほどしか継続しないという話もあります。 つまり 「本能に頼って恋をする 」というやり方は限界があるのです。 愛するということは何なのか? フロムは著書の中で、 「愛することはその人を愛すると決定するその決意である」と述べています。 つまり、「愛」とは 「この人を愛そう!」と自己決定するということなのです。 では具体的に愛するというは一体どういうことなのでしょう? フロムは著者の中で、 「愛するということは自分の生命を与えることだ」と述べています。 この生命とは、 「自分の中に息づいているもの」のこ とです。 相手に対して、 自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分の中に息づいているもののあらゆる表現を与えること。 これが 「愛 」だとフロムは述べています。 そして、 「与えることによって、かならず他人の中に何かが生まれ、その生まれたものは自分に跳ね返ってくる。 ほんとうの意味で与えれば、かならず何かを受け取ることになる」と言っているのです。 個人的にはここの内容が真理すぎて泣けてきます。 とても素敵な表現だと思います。 また、愛するということは、 「相手を幸せにしたい」と思うことです。 そしてそれは、 「相手を成長させること」でもあり、その成長を促すのも、大切な 愛の行動であると説いています。 人間は幸せになるために成長が必要不可欠だとも述べています。 自分よりも相手を高めようと思うこと 自分の持っているものを相手に与えるということが「愛」であることが分かりました。 ただし、ここで重要な点は、 「自分がどう思われようと相手を幸せにしたい・与えたい」という条件がついていることです。 たとえば、 自分が相手に認められたい、よく思われたい、だから何かをしてあげる、というのはフロムが言う 「愛」とは異なります。 相手が良くなるために、たとえ自分が嫌われててでも、厳しさと優しさを持って叱ったり諭したりできるかどうかということが問われているとフロムは述べています。 例えば、誰かが怠けていて、それをとがめれば相手は成長しますが、相手からは 「嫌な奴だ」と思われることがあるかもしれません。 それでも相手の成長を思って何か助言をしたり行動をするのが出来るかどうかが問われています。 そしてその姿勢こそが 「愛」であるとフロムは述べています。 また、 もしあなとパートナーが本当に愛する関係なら、お互いがその様に高め合い、関係性は深くなっていくはずなのです。 愛には勇気が必要である ここでフロムは続けて、 「勇気を持って愛しなさい」と言っています。 たとえば、誰かを愛したとします。 ですがその人が自分を裏切るようなことがあるかもしれません。 しかしそれは人間が弱いゆえにしょうがないことだとフロムは説きます。 そういったことをリスクとは感じず、 それをも理解し許容する寛容さを持つこと。 それが「愛すること」の出来る 成熟した人間であると言っています。 また、私たちが生きている 資本主義社会は、基本的には個人の利益を追求する社会構造です。 そのため、この社会の中で利益を求めない 「愛」にたどり着くことは難しいことだとも言及されています。 愛するには人格を成熟させなければならない 人を愛するには、自分自身が与えられるではなく、 与える段階に達していないと、愛することはできないとフロムは説いています。 そして愛するには以下の3つの要素が必要です。 知性 人格を成熟させるためには、誰かへの依存心や自己だけを愛するナルシシズム、あるいは他人を自分の為に利用したりする 利己主義的な弱さを 克服するところから始まり、その上で、 自分自身が強くあろうとする態度と、日々成長を志すことが必要になってきます。 愛する人との関係性 パートナーとお互いに気を遣いながらやっていくという考え方もありますが、フロムは そういった浅はかな関係性はもろく、すぐに崩れてしまうと述べています。 更に、そういった関係は相手と 生涯他人のままの状態だと言及しています。 更に続けて、愛し合っているカップルというのは、 互いが自律した一人の人間同士として、中心&中心という関係を築かなければならないと述べています。 成熟した人間同士であれば、ありのままの自分として相手と向き合うことができ、お互いに相手の価値観やスタイルを認め合うことができるのです。 もしあなたが誰かと気を遣いながら生活しているのだとしたら、その関係性のままでは結婚をしたり、生涯寄り添うということが難しいということでしょう。 愛を育み、成熟した関係を築いていくためには、 お互いが相手を認め合う、どちらにも依存しない自律した関係性を目指さなければなりません。 「愛するということ」の実践 フロムは、 「人間はとても弱いものだ」と言っています。 その例は以下のような人たちです。 自分に何をしてくれるかで相手を見る人• 見捨てられることの恐怖ゆえに他者に害をなす人• 他者に認められなくては自己の存在価値を認めることができない人• プライドが傷つけられた時にその補填として未熟な行動をとる人• 他人は自分のために存在すると信じ、傷つけることも厭わないような、元々人を愛することが出来ない人 このことについてフロムは以下のように述べています。 実際のところでは、結婚するくらいの年齢でこれらの弱さを克服し、与えられる側ではなく、与える側に達している人はとても少ない。 それならその結婚が不幸せになるのかというとそうではなく 、 知性を持って自分の弱さを認識し、強くあろうとすることで人は幸せに向かっていけるとも励ましています。 このフロムの「愛するということ」は 実践的な愛の指南書であり、人格の成熟に向かってそこへ向かっていく 態度と姿勢、そして自分の 決意が求められているといえるでしょう。 本のまとめと感想 このフロムの 「愛するということ」を簡潔にまとめれば次のような内容です。 「愛するということ」を主体性を持って 決意するのが「愛」であり、それが愛の出発点である。 「愛するということ」はあなたの持っている生命を他者に 与えること、あるいは一緒に 共有することである。 「愛するということ」に 見返りを求めない勇気を持つ。 「愛するということ」には 人格の成熟が必要で、弱さを克服し、常に強くあろうとしなければならい この著書は冒頭で次のようなことを述べています。 この著書で「愛」が何なのかについての答えが得られと思っている読者はがっかりするだろう。 この本は「愛」を実践する方法についてしか書いてないからだ。 つまりこれはあなたが 実践してはじめて愛の答えにたどり着くということなのです。 そしてそれは生半可に簡単なことではありません。 「愛するということ」はとても勇気のいる、そして強い人間ではないとできないことなのです。 この内容を知って、 大切な人をもっと大切にしたい、愛したいと思ってくれる人がいたのであれば幸いです。 愛するには勇気がいりますが、一度愛を経験したことがある人はその素晴らしさを知っていると思います。 世界に、そしてあなたと私に豊かな愛がありますように!それではまた!.

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【愛するということ】愛とは?恋とは?愛に必要な条件とは?(エーリヒ・フロム著)【内容と感想まとめ】

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第1章 愛は技術か たいていの人は愛の問題を、愛するという問題、愛する能力の問題としてではなく、愛されるという問題として捉えている。 つまり、人びとにとって重要なのは、どうすれば愛されるか、どうすれば愛される人間になるか、ということなのだ。 この目的を達成するために、人びとはいくつかの方法を用いる。 おもに男性が用いる方法は、社会的に成功し、自分の地位で許されるかぎりの富と権力を手中におさめることである。 いっぽう、主として女性が用いる手は、外見を磨いて自分を魅力的にすることである。 ふつう恋心を抱けるような相手は、自分自身と交換することが可能な範囲の「商品」に限られる。 私は「お買い得品」を探す。 相手は、社会的価値という観点から望ましい物でなければならないし、同時にその相手は、私の長所や可能性を、表にあらわれた部分も隠された部分もひっくるめて見極めたうえで、私を欲しがっていなければならない。 このように二人の人間は、自分の交換価値の限界を考慮したうえで、市場で手に入る最良の商品を見つけたと思ったときに、恋に落ちる。 生きることが技術であると同じく、愛は技術である 第2章 愛の理論 1.愛、それは人間の実存の問題にたいする答え 愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、と言うことができよう。 男の性的能力は与えるという行為において頂点に達する。 男は彼自身を、彼の性器を、女に与える。 オルガスムの瞬間、男は女に精液を与える。 女性の中心へといたる門を開き、もらうという行為を通じて与えるのだ。 物質の世界では、与えるということはその人が裕福だということである。 たくさん持っている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのだ。 自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているもののあらゆる表現を与えるのだ。 このように自分の生命を与えることによって、人は他人を豊かにし、自分自身の生命感を高めることによって、他人の生命感を高める。 もらうために与えるのではない。 与えること自体がこのうえない喜びなのだ。 愛するためには、性格が生産的な段階に達していなければならない。 この段階に達した人は、依存心、ナルシズム的な全能感、他人を利用しようとかなんだも貯めこもうという欲求をすでに克服し、自分のなかにある人間的な力を信じ、目標達成のためには自分の力に頼ろうという勇気を獲得している。 これらの性質が欠けていると、自分自身を与えるのが怖く、したがって愛する勇気もない。 愛の本質は、何かのために「働く」こと、「何かを育てる」ことにある。 愛と労働は分かちがたいものである。 人は、何かのために働いたらその何かを愛し、また、愛するもののために働くのである。 2.親子の愛 幼稚な愛は「愛されているから愛する」という原則にしたがう。 成熟した愛は「愛するから愛される」という原則にしたがう。 未成熟の愛は「あなたが必要だから、あなたを愛する」と言い、成熟した愛は「あなたを愛しているから、あなたが必要だ」と言う。 母親には子どもの安全を守るという役目があり、父親には、子どもが生まれた特定の社会が押しつけてくるさまざまな問題に対処できるよう、子どもを教え導くという役目がある。 3.愛の対象 愛とは特定の人間にたいする関係ではない。 愛の一つの「対象」にたいしてではなく、世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性のことである。 もし一人の他人だけしか愛さず、他の同胞には無関心だとしたら、それは愛ではなく、共生的愛着、あるいは自己中心主義が拡大されたものにすぎない。 一人の人をほんとうに愛するとは、すべての人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである。 誰かに「あなたを愛している」と言うことができるなら、「あなたを通して、すべての人を、世界を、私自身を愛している」と言えるはずだ。 兄弟愛 あらゆるタイプの愛の根底にあるもっとも基本的な愛は、兄弟愛である。 私のいう兄弟愛とは、あらゆる他人にたいする責任、配慮、尊敬、理解(知)のことであり、その人の人生をより深いものにしたいという願望のことである。 「汝のごとく汝の隣人を愛せ」という聖書の句が言っているのは、この種の愛のことである。 母性愛 乳は愛の第一の側面、すなわち世話と肯定の象徴である。 蜜は人生の甘美さや、人生への愛や、生きていることの幸福を象徴している。 たいていの母親は「乳」を与えることはできるが、「蜜」も与えることができる母親はごく少数である。 蜜を与えることができるためには、母親はたんなる「良い母親」であるだけではだめで、幸福な人間でなければならないが、そういう母親はめったにいない。 異性愛 異性愛とは、他の人間と完全に融合したい、一つになりたいというつよい願望である。 「愛しあっている」二人がほかの人には眼もくれないということはよくある。 じつは、彼らの愛は利己主義が二倍になったものにすぎない。 異性愛には、もしそれが愛と呼べるものなら、一つの前提がある。 すなわち、自分という存在の本質から愛し、相手の本質と関わりあうということである。 愛は本質的には、意志にもとづいた行為であるべきだ。 すなわち、自分の全人生を相手の人生に賭けようという決断の行為であるべきだ。 利己的な人には自分しか見えない。 彼は、自分の役に立つかどうかという観点から、いっさいを判断する。 そういう人は根本的に愛することができない。 自己愛 「もし自分自身を愛するならば、すべての人間を自分と同じように愛している。 他人を自分自身より愛さないならば、ほんとうの意味で自分自身を愛することはできない。 自分を含め、あらゆる人を等しく愛するならば、彼らを一人の人として愛しているのであり、その人は神であると同時に人間である。 したがって、自分を愛し、同時に他のすべての人を等しく愛する人は、偉大で、正しい」 マイスター・エックハルト 母性愛は無条件の愛であり、ひたすら保護し、包みこむ。 無条件であるため、コントロールすることも獲得することもできない。 母親に愛される人は無上の喜びをおぼえ、愛されない人は孤独と絶望に苦しむ。 父性愛の本質は、父親が要求し、規律や掟をつくることであり、父親が子どもを愛するか否かは、子どもが父親の要求に従うか否かにかかっている。 神への愛 人間が自分で意味を与えないかぎり、人生には意味がない。 人間は、他人を助けないかぎり、まったく孤独である。 西洋における支配的な宗教体系では、神への愛は、本質的に、神を、神の実在を、神の正義を、神の愛を、信じることと同じである。 神への愛とは本質的に思考上の体験なのである。 東洋の宗教や神秘主義においては、神への愛は一体感という感覚上の強烈な体験であり、それは、生のすべての行為においてその愛を表現することと不可分に結びついている。 第3章 愛と現代西洋社会におけるその崩壊 誰もができるだけほかの人びとと密着していようと努めるが、それにもかかわらず誰もが孤独で、孤独を克服できないときにかならずやってくる不安定感・不安感・罪悪感におびえている。 今日の人間の幸福は「楽しい」ということだ。 楽しいとは、何でも「手に入れ」、消費することだ。 商品、映像、料理、酒、タバコ、人間、講義、本、映画などを、人びとはかたっぱしから呑みこみ、消費する。 世界は、私たちの消費欲を満たすための一つの大きな物体だ。 偽りの愛の中には「センチメンタルな愛」とでも呼ぶうるものもある。 この愛の特徴は、愛が、現実の他人にたいする現実の関係において経験されるのではなく、もっぱら空想のなかで経験されるという点である。 このタイプの愛のもっとも一般的な形は、映画や、雑誌のラブストーリーや、ラブソングの愛好者たちが経験する、身がわりの愛の満足感に見られる。 愛や合一や親密さへの満たされぬ欲求はすべて、そうした娯楽作品をむさぼることで満たされる。 センチメンタルな愛のもう一つの面は、愛を時間的に抽象化するということである。 第4章 愛の修練 集中が技術の習得にとって必要条件であることは、ほとんど証明不要だろう。 本を読み、ラジオを聴き、おしゃべりをし、タバコを吸い、食事をし、酒を飲む。 誰もが大きな口をあけて、絵だろうと、酒だろうと、知識だろうと、なんでもかんでも必死に呑みこもうとしている。 この集中の欠如をいちばんよく示しているのが、一人でいられないという事実だ。 ほとんどの人が、おしゃべりもせず、タバコも吸わず、本も読まず、酒も飲まずに、じっとすわっていることができない。 集中力の習得においていちばん重要なステップは、本も読まず、ラジオも聴かず、タバコも吸わず、酒も飲まずに、一人でじっとしていられるようになることだ。 実際、集中できるということは、一人きりでいられるということであり、一人でいられるようになるということは、愛することができるようにさなるための一つの必須条件である。 愛を達成するための基本条件は、ナルシズムの克服である。 愛の技術の習練には、「信じる」ことの習練が必要である。 他人を「信じる」ということは、その人の根本的な態度や人格の核心部分や愛が、信頼に値し、変化しないものだと確信することである。 自分自身を「信じている」者だけが、他人にたいして誠実になれる。 なぜなら、自分に信念をもっている者だけが、「自分は将来も現在と同じだろう、したがって自分が予想しているとおりに感じ、行動するだろう」という確信をもてるからだ。 自分自身にたいする信念は、他人にたいして約束ができるための必須条件である。 愛に関していえば、重要なのは自分自身の愛にたいする信念である。 つまり、自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を生むことができる、と「信じる」ことである。 人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識のなかで、愛することを恐れているのである。 愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。 愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。

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『愛するということ』の感想。

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エーリッヒ・フロム「愛するということ」 2月14日はバレンタインデー。 愛を告白したい、確かめたいという人も多いでしょう。 そこで「100分de名著」2月シリーズは、フロムの「愛するということ」を取りあげます。 「愛するということ」はノウハウ本ではありません。 愛の本質を分析した思想書です。 1956年に出版されて以来、世界的なベストセラーとして読みつがれてきました。 著者のエーリッヒ・フロムは、1900年、ドイツでユダヤ人として生まれました。 フロイトの流れをくむ精神分析家であると同時に、ファシズムを非難し、人間性の回復を説いた社会思想家として知られています。 この書でフロムは人間とは死を知っている存在だとしました。 そしていつか死ななければならないという自意識が、孤独への恐怖を生んでいると考えました。 この孤独の恐怖を解消するために人は他者との一体化をめざす。 それが愛の本質だとフロムは言います。 番組では、愛を通して人間の本性を学びます。 そして人はどのように孤独と向き合うべきか、よりよい人生を送るためのヒントを探っていきます。 果たしてそれは正しいのだろうか?フロムは、相手が見つからないのは、その人に他人を愛する力が足りないからだと言う。 第1回では、愛には技術が必要であることを学ぶ。 他者と一体化したいという願望の対象は、個人間の関係にとどまらない。 民族や宗教など様々だ。 人間は自分を集団に融合させることで、孤独を忘れようとする習性があるのだ。 第2回では、愛を通して人間の負の側面を見つめる。 それはギブ・アンド・テイクが保証されているものではない。 しかしそれでも与えなくては始まらない。 なぜなら人は、与えられたことで変わるからだ。 フロムは様々な角度から、どのような人間関係を築くべきかを詳細に語っている。 第3回では、成熟した大人の愛とは何か?そのあるべき姿について考える。 現代人は精神的に極めてもろい存在なのだ。 しかし正しい愛のためには、自我の確立が欠かせない。 また愛が社会全体に及ぼす影響を知り、社会を変えていく勇気も忘れてはならない。 第4回では、本当の愛を手に入れるための心構えを語る。 それができれば良いのですが、世の中なかなか簡単にはいきません。 ストーカーによる犯罪も多発していますし、孤独を癒やせず苦しんでいる人も多いでしょう。 「愛するということ」は、一見、当たり前のことを言っているような面もありますが、人間関係について悩んでいる人にとっては、頭の整理になる本だと思います。 また社会全体のあり方についても、考えることが出来ます。 それぞれの人にとって、自分の立ち位置を見つめ直すきっかけになればと、今回取り上げました。 次回シリーズは「孫子」。 兵法書でありながら、背景に不戦の思想があるという、興味深い書です。 新年度を前に、仕事のやり方を見直したいという方にもおすすめです。 どうかお楽しみに。

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