風船 おじさん 現在。 風船おじさん行方不明事件のその後!テレビ出演から現在の行方は? | 毎日が新しい日

風船おじさんの現在!行方不明事件その後と真相/鈴木嘉和の詳細も総まとめ

風船 おじさん 現在

概要 [ ] にで立て籠もり事件、4月にをつけた椅子で飛び立って1時間弱飛行した末の不時着事故とニュースになる騒ぎを2度起こした。 同年11月に風船をつけたゴンドラでアメリカを目指して太平洋横断に挑戦したが、出発から2日後に連絡が途絶え、その後の消息は不明である。 最後の事件がを中心にマスコミで報じられたことで 風船おじさんの名で知られることになった。 略歴 [ ] 東京都でピアノ調律師の一家に生まれる。 を卒業後、の契約社員となり、で業を営む。 、44歳のときに音楽教材販売会社ミュージック・アンサンブルを起業して、ピアノ向けのテープ(から特定の楽器を外して録音した、練習用の音楽テープ)の販売を開始。 1985年7月にで音楽会を主催し、最後に風船を飛ばす演出を行った。 その後も音楽イベントを開催するとフィナーレには風船を飛ばした。 1986年にはでは音楽サロンのあんさんぶるを開店。 さらに荘やコーヒーサロンやパブレストランなどを経営していたが 、いずれもうまくいかず、にミュージック・アンサンブルが4億円から5億円の負債を抱えて倒産。 20人以上の債権者がおり 、借金苦に陥る。 ビニール風船26個を付けた()「」による横断で借金を返済すると債権者に語っていたという。 3月25日からで開催されたにテナント出店をしたが、会場内における立地が悪いことや、博覧会自体の集客が順調でないことから経営は不振だった。 そこで客集めとして、がデザインした横浜博のマスコット「ブルアちゃん」のを自作し、中に自分が入って撮影会、サイン会を実施していた。 しかし10月の閉幕が迫っているにもかかわらず横浜博覧会協会が対策を取らないとして、これに抗議して同年7月30日、早朝の4時から高さ30メートルの鉄塔コロネードにブルアちゃんの着ぐるみを持って足場伝いによじ登り7時間ほど籠城する騒ぎを起こした。 塔からは「団体バス駐車場を開放してね」という垂れ幕を垂らそうとしたが、風にあおられてうまくいかず、午前10時頃に博覧会関係者が異変を発見して通報した。 のがハシゴ車で頂上まで行き説得するが、ブルアちゃんの着ぐるみに入った鈴木はイヤイヤポーズをするなど拒否。 20分後の11時45分頃に説得に応じてハシゴ車で地上に引き降ろされるまで1時間近く鉄塔上を歩き回った。 出店にあたって博覧会協会側から1日10万人の入場者があると説明されていたのに実際は3万から4万人、1日100万円の売上げ見込みが3分の1、ときには10万円未満の日もある一方で、権利金や店の内装で出店には3,000万円を要していた。 博覧会そのものの集客の少なさに加えて、鈴木が出店した店は22店舗あるブルアちゃんモールの一角で高島町ゲート前だったが、直近のが業務用の駐車場だったため、利用者からの集客が期待できず、になると団体バスの利用数が半減していたことも「ガラ空きの業務用駐車場を開放して」と鈴木が訴える原因となった。 事件後に協会事務局長は鈴木に厳重注意した。 鈴木が出店した店は、『読売新聞』は郷土料理店、『朝日新聞』は飲食店、『毎日新聞』は土産もの店と報じている。 この抗議の後、協会と交渉の末に許可を取り、独自の客寄せとしてヘリウム風船の浮力でロープで係留されたゴンドラが高さ10メートルから20メートルに浮かぶ「空中散歩」を自費で博覧会場に設置。 9月1日から閉幕する10月1日までこれを実施し、約2500人がゴンドラに乗って空中散歩を楽しんだ。 最終日となった10月1日、鈴木はブルアちゃんの着ぐるみの中に入ったままゴンドラに乗り、ロープを外して場外まで飛んで行くと言い出したが、「皆に迷惑をかけてしまうから」と最終的には断念した。 経営する銀座のパブにしてもらったことから 、7月から歌手のの業をしていたが、1992年になって、契約を解消。 4月17日には、風船で飛び立ち、民家の屋根に不時着する事故を起こした。 防犯課のの制止を聞かずに東京都のからのを目指して午後12時45分にヘリウム風船で飛び立った。 自分が座った椅子に5メートルと2. 5メートルの風船各2個を直接くくりつけて飛行していたが、おもりの15kgの砂袋2個がはずれて急上昇し、予定の高度400メートルが5600メートルの高度に到達したため、当日購入していた百円ライターの火であぶって5メートルの風船を切り離した。 この後、高度が下がり、午後1時40分頃に出発地点から24キロメートル離れた東京都七丁目の民家の屋根に不時着した。 しかし左手に怪我をした程度で済み、駆けつけた員に謝罪しつつも、成功すれば次はをめざす予定だったと語り、改めて再挑戦することを誓っていた。 一方、民家はが壊れ、テレビアンテナが曲がる被害を受けたが、鈴木からの弁償も挨拶もなかったという。 この初飛行の後、のラジオ番組にゲスト出演し、その際、風船による太平洋横断計画について語っている。 しかし、4月の実験飛行の大失敗によって、マスコミ各社は鈴木と距離を置くようになり 、また風船のを売ってもらえなくなった。 同年11月23日に「」に乗り、湖畔から太平洋横断を目指し出発したが、2日後の25日を最後に消息はとだえた()。 家族 [ ] 国立音楽大学のピアノ科講師で高校時代に1学年上だったピアニストの石塚由紀子とは音楽教材の仕事をともにするようになり、やがてファンタジー号で飛び立つ半年前の1992年5月に結婚。 鈴木にとっては3度目、石塚にとっては2度目の結婚だった。 鈴木は石塚由紀子と入籍した際に石塚と改姓したが、旧姓の鈴木を通称として使い続け、戸籍上の名前は使っていなかった。 石塚はに著書『風船おじさんの調律』(未來社・)を出版し 、夏にはの男性と3度目の結婚をした。 初めにであることが判明し、同年4月に死去した。 6月に、継子の石塚富美子が奏者「fumiko」としてデビューした。 にはNHKのドラマ『』で女優としてもデビューした。 石塚にはfumikoの他に娘2人がおり、1991年に三姉妹で結成したTrioletはのTHE NEW ARTIST AUDITIONで最優秀アーティスト賞を受賞。 1994年には母娘4人でファミローザ・ハーモニーというを中心にした音楽グループを結成し、ディナーショーを開催したり、日本国外でも活動した。 なお、全員が音楽大学を卒業している娘3人は石塚の前夫との間の娘であり、鈴木との血縁関係はない。 3人の娘からは結婚後の姓の「石塚」の いしづかの づと「嘉和」の よしかずの ずから「ズー」の愛称で呼ばれていた。 本人は「カズ君」と呼ばれるのが希望だったという。 最初の妻との間には娘をもうけており 、ファンタジー号で行方不明になった後にから取材を受けている。 ファンタジー号事件 [ ] 事件の概要 [ ] 、当時52歳だった鈴木は、入りのを多数つけたゴンドラ「」の試験飛行を琵琶湖畔で行うとした。 前日の22日夜から風船を守るため、琵琶湖畔で野宿していた。 試験飛行の場には、電話で呼び出された教授のと学生7人、の近江八幡通信局長、前日から密着していたの『』取材班、そして鈴木の支持者らが集まった。 この日の名目はあくまで200メートルあるいは300メートルの上昇実験ということだった。 (現・)は安全性に疑問があることから飛行許可は申請を受理しておらず、あくまで地上に係留したままの試験飛行という条件で受理していた。 しかし実際には「僕がもし、太平洋横断を決行したら、マスコミが大騒ぎして家に押しかけてくると思う」と家族にホテルに宿泊するよう事前に手配しており、鈴木は密かにアメリカまでの飛行を強行しようと考えていた。 ホテルには12月3日頃まで待っていればいいとも言っていたという。 鈴木は3人の娘にはアメリカ土産に何がいいかと聞いて、希望の品を書いたメモをポケットに入れて旅立っている。 120メートルまで上昇して一旦は地上に降りたものの、16時20分頃、「行ってきます」と言ってファンタジー号を係留していたロープをはずした。 「どこへ行くんだ」という三輪教授に「アメリカですよ」との言葉を返し、重りの焼酎のびんを地上に落とし周囲の制止を振り切って、サンド・マウンテンをめざして出発した。 飛び立った直後にテレビ局が鈴木に携帯電話で連絡すると「ヘリウムが少し漏れているが、大丈夫だ」との回答を得た。 ホテルにいる家族へは夜10時からで連絡があり、その後も1時間ごとに電話がかかってきた。 風船の様子がおかしいこと、思ったより高度が上がらないこと、海に出たこと、煙草を吸ったことなどを家族に語った。 鈴木がテレビ局に電話しても繋がらなかったという。 翌朝6時に「スバラシイ朝焼けだ! きれいだよ」と妻に伝え、その次の「行けるところまで、行くから心配しないでネ! 」が最後の電話になった。 以後、携帯電話は不通となった。 24日深夜からイーパブからの信号が発信され 、25日の8時半にの捜索機が沖の東約800km海上で飛行中のファンタジー号を確認した。 しかし鈴木は捜索機に向かって手を振ったり座りこんだりして、SOS信号をやめた。 ファンタジー号の高度は2,500メートルで、高いときには4,000メートルに達した。 約3時間の監視したが、手を振っていたこと、ゴンドラの中のものを落下させて高度を上げたこと、遭難信号も消えたために飛行継続の意思があると判断して11時半に捜索機は追跡を打ち切った。 要請があれば救助したとしている。 残された妻は「ああ、よかった」と繰り返し、3人の娘は「もうとっくにアメリカまで行っていると思ったのに、なんだまだ宮城県沖なの」と笑い合ったが、その後は消息が途絶えたことで心配を募らせたと語っている。 以後、SOS信号は確認されておらず、家族から捜索願が出されたことを受け、12月2日に海上保安庁はファンタジー号が到着する可能性のあるアメリカととに救難要請を出した。 鈴木の計算では、ファンタジー号は、高度1万メートルに達すれば、に乗って、40時間でアメリカに到着するはずだったが 、以後の消息は不明である。 当時のの教頭である池田学は『朝日新聞』の取材に対し、「生存は難しいだろう」と答えている。 最後にファンタジー号が目撃されたとき、ファンタジー号は金華山沖800kmで高度2500m、時速70kmで北東へ向かっており、幹部も航空評論家のも共にロシアのあたりまでは達したのではないかと推測した。 風船については日本気球連盟が2つの予測をしている。 実際に捜索機が見たときには既に風船はしぼんでおり、発見されて24時間から48時間以内には着水するだろうと考えられた。 出発時に4つあった主力風船も2つのみになっていた。 着水した後については、での教授を務めた三好寿が、宮城県沖で着水すればの方向へ、付近の着水ならオホーツク海で親潮に載って日本の沿岸へたどり着くとの見解を示した。 残された家族は無人島に漂着したのではないかと思っていると行方不明直後の1992年の取材で語っている。 冒険の動機は、同志社大学教授の三輪茂雄の保護に賛同して、鳴き砂保護を訴えるためだったと言われる。 鳴き砂の海岸がある(現・)の町長に2度の接触を持ち、経済援助を要請していた。 その際「2億円のをかけている」と説明したという。 生命保険については、債権者に5,000万円の保険に加入したと語っていたという情報もある。 この債権者には、成功すればCM料で借金が返済できるとも説明していた。 しかし仁摩町からの太平洋横断飛行出発には、4月の東京での飛行の失敗のために日本の運輸省の許可もアメリカのの許可も下りず、仁摩町は文書で正式に要請を断った。 なお、仁摩町では鈴木が高校時代に見て以来好きだったというフランス映画『』をビデオで見せていたという。 三輪教授には、会うたびに異なった計画を説明し、「断食の訓練をしたから食事はいらない」「アメリカから帰ったら有名になれる。 俺は冒険家だ」とも語っていた。 そんな鈴木に三輪は無線免許を取ることと、鳴き砂のある仁摩町から飛ばなければ意味がないとさとしていた が、それにもかかわらず、琵琶湖湖畔から旅立たれ、裏切られた思いだとマスコミに感想を述べている。 鈴木は三輪教授に対しても「実戦さながらの300メートル上昇浮力テスト」と偽っており、騙し討ちを受けた格好の三輪教授は「バカモン。 上昇しないといったじゃないか。 ウソツキ」「成功すれば冒険家だが、失敗すればバカモンだ。 俺は知らんぞ」と飛び立った鈴木に言い放ったと手記に記している。 ファンタジー号 [ ] 直径6mの主力となるビニール風船を4個、直径3mの補助風船を若干個装備。 ゴンドラの外形寸法は約2m四方・深さ約1mで、海上に着水した時の事を考慮し、浮力の高いを使用していた。 ゴンドラ製作を依頼されたのは桶職人で、桶造りでは東京の名人と言われた吉原誠一。 吉原は江戸川区指定無形文化財・工芸技術の指定を受けた人物ではあるが 、木風呂の技術者であって、飛行船のゴンドラは専門でない。 吉原は鈴木からゴンドラの製作を10月30日頃に依頼されていた。 風船のガスが徐々に抜けて浮力が落ちるため、飛行時に徐々に捨て機体の浮上を安定させる重り()を用意していた。 重りの中身は、厳寒でも凍らないの どなんを使用していた。 積載物は、48時間分のボンベ と、1週間分の食料、緯度経度測定器、、、海難救助信号機、、レーダー反射板、、地図、の零下60度以下の気温に耐えるための魚の冷凍庫内で試した防寒服 、に防止等であった。 出発時の防寒具は、スキーウェアと5枚。 無線免許は持っていなかったため、は積まれていなかった。 搭載していた高度計についても、使い方を理解していなかったという。 食糧については、鈴木はの訓練をしていたと称しており、のみだった。 さらにテレビカメラと無線緊急発信装置も搭載されていた。 本来の計画では主力風船が6個に補助風船26個の予定で揚力800kgとの計算だったが、実際には主力風船は4個に補助風船は若干個に減っていた。 その上、破れてヘリウムガスが抜ける風船があったため、鈴木は出発の前に粘着テープでこれを応急修理し、作業を手伝っていた学生には「これでok. 君は人にいうな」と口止めして、破れた風船を使っていた。 このためファンタジー号は浮力が不足したため上昇せず、バラストとして用意していた焼酎は200本全てが下ろされた。 さらに酸素ボンベも下ろしたことでやっと上昇を始めた。 ファンタジー号のビニール風船については、制作したアド・ニッポー社は、もともと人を乗せるものではないし、零下何十度にも達する高空に耐える保証もないことを取材に答えている。 日本気球連盟の今村純夫も、上空で気圧が下がると、球形の風船では膨らんで弾ける可能性を指摘。 4月の不時着事故でこれまでの会社がヘリウムガスを売ってくれなくなったため、別の会社から調達。 計280万円分のヘリウムボンベはトラック3台で運搬された。 ファンタジー号での冒険にあたっては、鈴木は金を募ったが、寄付された金額は不明。 ゴンドラの制作のために多額の借金を負い、支援者の1人が1,300万円を肩代わりしたという。 別の取材では支援者の経営コンサルタントの男性は1,500万円の支払いがあったと語っており、1993年時点で750万円までは払ったという。 マスメディアの反応 [ ] ファンタジー号の出発直後から、民放テレビ局の番組では、との婚約報道とともにトップニュース扱いで毎日のように報道。 「風船おじさん」のニックネームが定着するきっかけを作った。 新聞のテレビ欄では、11月26日にフジテレビ『』が「無謀な冒険 風船で米国へ」、TBSの『』が「無謀・風船男太平洋横断決行」、『』が「風船おじさんを大追跡」と取り上げているのが確認できる。 12月1日には『モーニングEye』が「風船男飛んで1週間消息徹底追跡」、『タイム3』が「追跡風船男米空軍も調査」。 密着取材していたフジテレビの『おはよう! ナイスデイ』は12月2日に「風船男の安否」、12月3日に「風船おじさん 遂に身内捜索願」と取り上げた。 しかし、以後は、が発生し、マスメディアの関心が移ったことと、ファンタジー号自体の話題が尽きたこともあり、『スーパーワイド』が12月6日「風船男SOS」、12月8日に「風船男SOS検証」と取り上げているのがテレビ欄で確認できる最後であり、ファンタジー号に関する報道は沈静化した。 では、同年12月17日号の『』が、密着して出発時の映像も撮影していたの姿勢を「鈴木を煽ったのではないか」と取り上げ、同時に計画を無謀だと指摘。 12月24日・31日合併号の『』は過去のプライバシーを明かす記事を掲載した。 見出しには、『週刊文春』が「風船男」、『週刊新潮』は「風船おじさん」を使った。 フジテレビは『週刊文春』の取材に対し鈴木とタイアップしておらず、また鈴木は無線免許を取得して4月以降に出発すると語っていたため、11月23日に飛んでしまうとは思わなかったと回答している。 前述のように鈴木はアメリカへ旅立つことを前提に家族を匿うホテルを自ら用意していた。 出発前に取材に訪れたマスコミはあまりにも無謀だと反対する人も多かったが鈴木はあえて自発的に旅立ったとジャーナリストの大林高士は『』で記している。 その後 [ ] 残された妻は会社の共同経営者であり、家が1億円の抵当に入っていることもあり 、借金は残された妻が払い続けていた(2006年時点)。 鈴木が飛び立ってから、早朝に無言電話がかかってくることがあり、妻は生存する鈴木からの電話かと期待をかけていたが、その電話も3年ほどで途絶えた。 1999年の取材によれば、2年に1度の捜索願を家族が更新しており、鈴木は上は生きていることになっているという。 ただその時点での手続きをしようかと思うようになったとも語っている。 前述のように2017年に死去した妻は2016年に再婚している。 この事実は、その後失踪宣告を申し立てたことにより鈴木が死亡したものとみなされた、あるいは3年間の生死不明を原因とした離婚手続きを妻がしたことを示している。 「風船おじさん」については、その後も話題になることがある。 例えば、・のは、2001年に野球選手のがを辞退した際に、冒険家だった風船おじさんに国民栄誉賞をあげればいいと語ったことがある。 たけしはにもこの騒動と風船おじさんをひっかけてギャグにした。 1994年にはがアルバムの「飼い犬が手を噛むので」という曲で風船おじさんに言及している。 1995年にはがアルバム「ポルノポルノ」に「風船おじさん」と題する曲を収録。 ドン・キホーテ的生き方を敬意とともに肯定する内容となっている。 4月には、のの作・演出で鈴木をモデルにした舞台『風船おじさん』がので上演された。 の一人芝居である。 同じく劇作家のは、との『』誌との対談で映画化したい人物として「風船おじさん」を挙げた。 の20時からはが鈴木の妻や周辺に取材して、『ファンタジー号に乗って~あれから6年 消えない響き』というのラジオ番組を放送した。 遺体がアラスカで発見されたというニュースがネット上に存在しているが、事実無根のデマである。 鈴木嘉和を題材とした作品 [ ] 音楽• 筋肉少女帯『飼い犬が手を噛むので』1994年 アルバム『レティクル座妄想』に収録• レピッシュ『風船おじさん』1995年 アルバム『ポルノポルノ』に収録 舞台• トム・プロジェクト『蟹江敬三ひとり芝居 風船おじさん』1997年4月4日~4月13日 シアタートップス 作・演出:山崎哲、主演:蟹江敬三 ドキュメンタリー• 文化放送『ファンタジー号に乗って~あれから6年 消えない響き』1998年11月22日 脚注 [ ]• 石塚由紀子『風船おじさんの調律』未来社、2000年、p. 125• 163• 石塚由紀子『風船おじさんの調律』未来社、2000年、p. 167• 70-72• 石塚由紀子『風船おじさんの調律』未来社、2000年、pp. 79-80• 「通風筒」『中日新聞』1989年7月31日付。 石塚由紀子『風船おじさんの調律』未来社、2000年、p. 「『客入らぬ』と鉄塔ろう城 横浜博会 マスコット着て、土産もの店社長」『毎日新聞』1989年7月31日付• 「怒り鉄塔に昇る 横浜博で営業不振の出店業者 地上30メートル 独演1時間」『読売新聞』1989年7月31日付• 「青鉛筆」『朝日新聞』1989年7月31日付• 石塚由紀子『風船おじさんの調律』未来社、2000年、pp. 81-82• 石塚由紀子『風船おじさんの調律』未来社、2000年、p. 「冒険風船あえなく不時着」『読売新聞』1992年4月18日付• 「風船で空中散歩 落下し男性けが」『中日新聞』1992年4月18日付• 「20キロ先の民家に不時着、瓦割る 風船の冒険男性」『毎日新聞』1992年4月18日付• 「青鉛筆」『朝日新聞』1992年4月18日付• 石塚由紀子『風船おじさんの調律』 未来社、2000年、p. 石塚由紀子『風船おじさんの調律』未来社、2000年、p. 119,131• 」『毎日新聞』2000年12月12日• 「消えた風船オジサン三女がCDデビュー! バイオリニストfumiko」 ZAKZAK 2003年4月14日• 「『風船おじさん』の娘、fumikoが女優デビュー」『東京中日スポーツ』 2004年6月5日付• 内 2017年9月30日閲覧• 公式サイト内 2017年9月30日閲覧• 「『風船おじさん』出発から十年、家族はディナーショーで音楽活動」『週刊文春』2003年1月2日・1月9日合併号、p. 石塚由紀子『風船おじさんの調律』未来社、2000年、p. 126• 石塚由紀子『風船おじさんの調律』未来社、2000年、pp. 28-29• 167.• 石塚由紀子『風船おじさんの調律』未来社、2000年、pp. 31-34• 「不明1ヵ月、情報ゼロ 米へ飛行 風船おじさん」『中日新聞』1992年12月28日付• 」『週刊ポスト』1994年1月1日・7日合併号、pp. 51-52• やの例に見られるように、冒険家は世界中どこでも連絡の取れるを保有・使用するのが定石。 2019年5月17日閲覧• 「ビートたけしの21世紀毒談 国民栄誉賞はイチローじゃなく"風船おじさん"にあげろっての」『週刊ポスト』2001年11月23日号、p. 216。 「ビートたけしの21世毒談 第988回 空からオタマジャクシどころか『風船おじさん』が降ってくりゃそれこそファンタジーだっての! 」『週刊ポスト』2009年7月20日号、p. 129• 「蟹江の演技が熱気 トム・プロジェクト『風船おじさん』」『朝日新聞』1997年4月8日夕刊。 山家誠一「ラジオ交差点 風船おじさんの『夢』」『朝日新聞』1998年夕刊。 「『風船おじさん』のドキュメンタリー 22日・文化放送」『東京新聞』1998年11月18日付• 「消えたあの23人を大追跡! アラスカで風船おじさん発見!? 」『』2002年1月17日・24日号。 Tom Project 参考文献 [ ]• 「風船おじさん 一発逆転飛行の動機と結末」『』1992年12月25日号• 「フジTVが舞い上らせた風船男」『』1992年12月17日号• 「行方不明『風船おじさん』の『女』と『金』のペテン人生」『』1992年12月24日・31日合併号• 宝泉薫編著「おじさんはいかに生きるか クシャおじさん、風船おじさんほか」『芸能界一発屋外伝』、1999年、pp. 164-p165。 関連事項 [ ]• - 少年が風船で空へ舞い上がるシーンで知られるフランス映画。 鈴木が影響を受けたとされる(本文参照)。 - が1977年に発表したヒット曲。 「ファンタジー号に乗って空に飛び立とう」という歌詞。 ()- の。 4月にヘリウム風船による飛行を試みたが、風に流されて失踪。 3ヵ月後に海上に墜落して死亡しているのが発見された。 同年度のを受賞。 - 日本の。 2008年1月、での太平洋横断中に失踪。 - の実業家。 1968年10月、借金返済のために無謀な計画での世界一周レースに参加し、翌年7月、航路を偽造した航海日誌を船に残して消息を絶った。

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スポンサーリンク 2月21日のバラエティ番組『爆報! THE フライデー』の内容は!? 2月21日のバラエティ番組『爆報! THE フライデー』は、【行方不明になった風船おじさんに新事実! 】です! 1992年にアメリカを目指して風船で旅立ったおじさんがいました! その後は行方不明のまま…。 気になっていた方も多いのでは!? 今週金曜夜7時からの! 今までテレビ取材は受けてなかったんだとか。 予告編動画では、「連絡があったみたい…」と語る娘さん。 ということは、「風船おじさん」は生きてらっしゃる!? 行方不明で亡くなったと思ってましたので、とりあえずはすごい良かったのですね! その上で、風船おじさんの当時の経緯について知らたいです。 飛び立った後、どうなったのか!? 番組では「風船おじさんは生きている!?」ところで終わりそうな気もしますがw 詳しくは番組で確認するしかないですw 携帯電話で連絡があったみたいですね。 当時は馬鹿でかいヤツだったでしょうが、空の上から電話をよこした見たいです。 でもその後はやっぱり消息不明のままのようです~ 『風船おじさん』とは? 引用元: 1992年に世間を騒がせた風船おじさん!? 風船おじさんの名は、鈴木嘉和さんです。 当時を振り返ると、かなり無謀なかたちでアメリカに向かって風船で旅立った印象です。 飛び立つ直前は、警察官たちが制止してましたが鈴木さんが強行した感じででしたね。 ゴンドラ「ファンタジー号」と共にアメリカを目指して旅立ち行方不明になった「風船おじさん」鈴木嘉和氏の最後の写真、彼のその後を考えると、不気味な雲海とファンタジー号とのコントラストが、出来過ぎて嫌になるくらい素晴らしい。 せめて無限の青空と大洋の一体化した光景を、最期に見た事を望む。 — ただ生きたい人の けんきょうふかい tadaikitaihito その後は連絡も取れず行方不明の状態に! 個人的にも、当時ショックでしたね。 ファンタジーを実践してみせた「風船おじさん」なので、結果もファンタジーに終わったような感じでした。 それが今回、新事実が!? スポンサーリンク 風船おじさんさんのプロフィールは? 名前 鈴木 嘉和(すずき よしかず) 生年月日 1940年 — 1992年11月消息不明 出身地 東京都• 1989年、横浜博覧会で立て籠もり事件を起こす。 1992年4月、風船をつけた椅子で飛び立って1時間弱飛行した末の不時着事故を起こす。 1992年11月、風船をつけたゴンドラでアメリカへ向けて出発したが、その後の消息は不明に。 1992年4月にも不時着事故があったんでしたね~ なんとなく当時を思い出します。 もともとはピアノの調律師をされていたようですが、会社経営で失敗して大きな借金もあったみたいです。 まとめ 2月21日のバラエティ番組『爆報! THE フライデー』は、【行方不明になった風船おじさんに新事実! 】です! 1992年にアメリカを目指して風船で旅立ったおじさんがいましたね! 現在も行方不明のままのようですが、新事実が!? なので、風船おじさんのプロフィールと新事実などについて気になって調べてみました。 風船おじさんは生きている!? できれば当時の状況、特に旅立った後どうなったのか知りたいですね。 詳しくは番組で確認しましょう。 今後もご活躍をお祈りしております! カテゴリー•

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風船おじさんの娘は?爆報theフライデー

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謝罪や弁償くらいあっても良いと思いますが、 風船おじさんからその民家へ謝罪や弁償は全くなかったのだとか…。 風船おじさん 鈴木嘉和 のファンタジー号事件 1992年4月17日の試験飛行で世間を騒がせた風船おじさん(鈴木嘉和)。 1992年4月の不時着事件から7か月後の11月23日、ついにその事件は起きてしまいました。 その事件は後に 『ファンタジー号事件』と呼ばれることに…。 ファンタジー号事件とは、風船おじさんが制作したファンタジー号により、 日本の琵琶湖から太平洋を横断してアメリカに行くという計画。 風船おじさんが制作したファンタジー号とは、ヘリウム風船を大量にとりつけたゴンドラ。 つまり、風船おじさんはヘリウム風船を大量にとりつけた ゴンドラに載ってアメリカまで行こうとしていたのです…。 風船おじさんの支持者や、 フジテレビの『おはよう!ナイスデイ』の取材班、同志社大学の三輪教授と学生たちが集まっていた琵琶湖で実験を行い、風船おじさんは、ファンタジー号の飛行を開始。 120メートルほどまで上昇したところで、一旦着陸した風船おじさん(鈴木嘉和)。 しかし、風船おじさんは16時20分ごろに突如、 「行ってきます」と言い残し、 ファンタジー号で大空へと飛び立ってしまったのです…。 同志社大学の三輪教授が 「どこへ行くんだ」と問いかけると、風船おじさんは、 「アメリカですよ」と返答。 僅かな食料と携帯電話、酸素ボンベやマスク、パラシュートなどの最低限の積載物とともに、 風船おじさんは冒険の旅へ出発してしまったのです! 『風船おじさん』の計画では、ジェット気流に乗ることができれば 、 40時間でアメリカへ到達すると考えていたのだとか。 風船おじさん、もう26年も前の事件か……。 しかし実際はそう簡単に上手くいかず、 出発から2日後にはファンタジー号から SOS信号が発せられ、海上保安庁が出動。 宮城県金華山沖でファンタジー号を発見します。 『風船おじさん』の消息は、その後途絶えてしまい、誰も風船おじさんの行方を知りません。 ファンタジー号事件の風船おじさん 鈴木嘉和 現在は生きてる? 琵琶湖を飛び立ったまま消息不明となってしまったファンタジー号と風船おじさん(鈴木嘉和)。 海上保安庁が宮城県金華山沖でファンタジー号を発見したのを最後に、 1992年11月25日で消息不明となりました。 昔「風船おじさん」という人がいたな。 あれは誰の目にも無謀だっだが、後に奥さんは「気の長い自殺だったのでは」と語っていた。 — tadataru tadataru 一時、風船おじさんが亡くなっているのをアラスカで確認された、という情報がネット上で流れましたが、これはデマだったと判明しています。 『風船おじさん』が消息を絶った後に、 『朝日新聞』のインタビューに答えた気象大学校の池田教頭 当時 は、 「生存は難しい」と説明。 ファンタジー号にとりつけられていた風船の素材が塩化ビニールだった場合、 『日が経つにつれてガスが抜けていき、海に着水しているだろう』 との見解もあります。 つまり、池田教頭 当時 のコメント通りだった場合は、 ファンタジー号は太平洋のどこかに着水し、そのまま沈んでいったということに…。 また、当時の風の向きが北へ吹いており、『ファンタジー号』が北へ流されていたという情報もあります。 普通に考えれば、海へ着水したというのが順当なところでしょう。 ファンタジー号の着水地点の近くを船などが通っていれば、 『風船おじさん』が救助されたということもあり得るかもしれませんが、これまでにニュースになっていません。 ということは、おそらく『風船おじさん』の生存は極めて低いと思われます。 低体温症によってファンタジー号の中で亡くなった後、ファンタジー号が着水したということも考えられるわけです。 妻子がいる風船おじさんは、常に、 「借金返済のためにやって見せる」 「成功すればCMになるはずだ」 と語っていました。 もし風船おじさんが生きていれば、まず何らかのアクションを起こすはずでしょう。 情報によれば、風船おじさんの妻は、会社の共同経営者であったので、 4億円を超える借金は、現在も彼女が返済中とのこと。 生涯をかけても返せる金額ではありませんし、借金を残した張本人は消息不明なのですから、 『風船おじさん』の妻としては、何もかもを失った思いでいるのかも….

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