井沢 八郎 あゝ 上野 駅。 NHK番組表・トップページ

あゝ上野駅

井沢 八郎 あゝ 上野 駅

本名は工藤金一(くどう きんいち)。 演歌歌手。 女優の工藤夕貴、元俳優でクラブDJの工藤正貴は実子。 二番目の妻は声優の青羽美代子。 中学卒業後、歌手を目指して上京。 1963年に「男船」(作詞・松井由利夫、作曲・大沢浄二)で東芝音楽工業よりレコードデビューを果たす。 デビュー第二弾の「あゝ上野駅」は井沢八郎の代表曲であると同時に、第二次世界大戦後の日本の世相を反映する代表曲となった。 他に「男傘」「北海の満月」などのヒット曲がある。 作曲家・大沢浄二が恩師である。 伸びやかでハイトーンを特徴とする歌声で、晩年もショーやテレビ番組などで活躍していた。 私生活では料亭経営者の令嬢と結婚、長年連れ添い一男一女(夕貴・正貴)を授かった。 しかし、1983年に交通違反の不出頭、1985年にデートクラブで16歳の女性を買春しての淫行、といった不祥事を起こす。 さらに隠し子の存在も明らかとなる。 こうしたスキャンダルのため、一時、芸能活動ができなくなったうえ、夫人と不和となりこの婚姻関係は1989年に破綻。 その後、縁があり交際を続けてきた青羽と1994年再婚し、死ぬまで連れ添った。 2005年秋頃、体調不良を訴え検査の結果食道がんが見つかり手術を受けるが、翌年5月にはがんがリンパ節に転移。 同年秋に再入院し、治療に努めた。 2007年1月17日午後11時18分、食道がんのため自身の転機の地でもある上野の永寿総合病院にて死去。 69歳没。 井沢八郎が亡くなった1月17日は、奇しくも娘・工藤夕貴の誕生日であり、晩年和解を果たした夕貴は実父の死に人目を憚らず悲嘆した。 戦後日本の歴史に残る名曲として位置付けられており、2003年には上野駅の駅前に「ああ上野駅」の歌碑が完成した。 集団就職経験者を始め、昭和30年代から40年代にかけての高度経済成長時代を生きた、多くの団塊世代と呼ばれる人々の想いと共に、永くこの歌が刻まれることになった。 2007年の「第39回思い出のメロディー」 NHK では、演歌歌手・氷川きよしが井沢の追悼として歌唱した。 また、井沢の死後の記者会見では、愛娘・工藤夕貴が「『あゝ上野駅』は、パパの残してくれた大事な宝物。 私がきっと、歌い継いでみせます」と涙ながらに語っていた。

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井沢八郎 ああ上野駅 歌詞&動画視聴

井沢 八郎 あゝ 上野 駅

発売と同時に30万枚を売り上げる大ヒットとなり、その後、当初はなかったセリフが入った新バージョンや擬似ステレオ化されたバージョンなども発売され、累計売り上げは100万枚を超える。 団塊世代を中心に、多くの人の心に残る名曲。 多くの有名歌手にカバーされており、最近では、氷川きよし、三山ひろし、福田こうへい、三丘翔太、一条貫太らも自身のCDに収録している。 日本航空の現社長の赤坂さんが(とくに知り合いではありませんが…)、「昔は、たとえば札幌から東京に行くには、汽車、青函連絡船、汽車と乗り継がねばならず、とんでもなく時間がかかった…」というようなことを機内誌に書いていました。 井沢八郎「あゝ上野駅」が発売された昭和39年(1964年)当時、青森ー上野間ですら、寝台特急「はくつる」でも12時間近く、急行「八甲田」なら14時間近くかかっていました。 今では、新青森から東京まで新幹線で約3時間、新千歳から羽田まで飛行機でたったの90分。 神奈川県の小田原から東京へ通勤するよりも早かったりして、東京の青梅から丸の内に通うのと同じくらいの時間です。 昔は、「遠くなればなるほど、時間がかかる…」という極めてシンプルな図式でしたが、最近では、時間と距離が比例しなくなってきています…。 もちろん、クーラーのない時代に戻って汗をかきたいとは思いませんし、丸1日かけて東京から札幌まで移動したいとも思いません…。 しかし、一見、今なら無駄とも思えるその恐ろしく長く退屈な移動時間の中にも、大切な何かがあったように思えます…。 決して無駄ではない時間…、逆に、今では味わえなくなった「ゆったりとした時間」があり、その間、いろんなことを思い、考え、そこには、様々な感情がありました。 中学卒業者を乗せた集団就職列車の第一号が、青森から東京へ向かったのは昭和29年(1954年)。 その後、高度経済成長と時を同じくし、昭和35年から45年あたりまでをピークに、集団就職列車は昭和50年(1975年)まで続きました。 高校進学率が50%だった昭和29年当時、高卒初任給の月額平均が約11,000円、大卒で約17,000円という中、「金の卵」と呼ばれたその多くは、京浜地帯の大工場や、中小零細企業、町工場や商店などでの住込みで、月給も3〜4千円という安月給。 新聞には「都会に馴染めずに脱落…」などという記事も少なくありませんでした、 そういう集団就職経験者を始め、昭和30年代から昭和40年代にかけて、戦後の日本の高度経済成長時代を作った、いわゆる団塊世代と呼ばれる人々、今の60代〜70代の人たちの心に刻まれた歌が「あゝ上野駅」ではないでしょうか。 「お店の仕事は辛いけど 胸にゃでっかい夢がある…」という歌詞に、どれだけ勇気づけられたことかと思います。 発売された昭和39年(1964年)は、東海道新幹線が開業し、東京オリンピックがあった年。 つまり、ワンちゃんがホームランを55本打ち、「かっぱえびせん」「ハイニッカ」「Vロート」「デンターライオン」「花王スターチ」などが発売され、「平凡パンチ」が創刊となり、「柔」「明日があるさ」「皆の衆」「学生時代」「愛と死をみつめて」「何も云わないで」「涙を抱いた渡り鳥」「お座敷小唄」「ウナ・セラ・ディ東京」「東京ブルース」などが街には流れ、西郷輝彦、大月みやこらがデビューし、今も続くフジテレビ「ミュージック・フェア」が始まった…そんな年でした。 当時、上野と同じく東京の玄関口で終着駅だった、東海道線の「東京駅」、中央線の「新宿駅」に降り立った人たちにも、この「あゝ上野駅」は、同じように心に響いたことでしょう。 実際、この曲を歌った井沢八郎も、昭和32年、20歳の時、親に内緒で売った米俵で東京への旅費を工面し、青森県の弘前から上京したそうです。 同じく東北の岩手県から上京した石川啄木の「ふるさとの 訛なつかし停車場の 人ごみの中に そを聴きにいく」を思い起こさせる2番の歌詞、「配達帰りの自転車を とめて聞いてる 国なまり…」も泣けます。 ちなみに、23歳でこの詞を書いた関口義明は、東北とは何の関係もない埼玉県羽生市の出身というから大したもんです。 「父ちゃん、僕がいなくなったんで…」で始まる今では有名になった間奏のセリフは、後から、井沢八郎自身が考えて付け加えたものです。 なので、1964年(昭和39年)発売当初の「あゝ上野駅(B面「艶歌一代」)には入っておらず、1968年発売のベスト・カップル・シリーズ「ああ上野駅(B面「北海の満月」)から収録されています。 さらに、この曲を担当し、最初に世に送り出した東芝のディレクターも大したものです。 昭和8年生まれ、学習院大学時代は天皇と同級生だったそうですが、たしかな時代を捉える目を持っていたということになります。 上野駅の駅前には(場所はパッとしませんが)「あゝ上野駅」の立派な歌碑があります。 また、上野駅の16・17番線(朝・夕の常磐線特急等で使用されているホーム)の発車メロディーに「あゝ上野駅」が使用されていますし、15番ホームの入り口には、石川啄木の「ふるさとの 訛なつかし停車場の〜」の短歌のモニュメントもありますから、上野駅に行くついでがあれば、一度、見てくるのも良いのではないかと思います…。 中学を卒業すると同時に親元を離れ、遠く見知らぬ都会で、戦後日本の復興期を背負った世代に、敬意を表します。 ちなみに、アリスの「ベーやん」こと堀内孝雄さんも、三橋美智也とともに、この「ああ上野駅」を心に残る歌として挙げています…。 ホラ、聴きたくなってきたでしょ…? (2019年10月 西山 寧).

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第3回 井沢八郎 「あゝ上野駅(ああ上野駅)」(1964年)

井沢 八郎 あゝ 上野 駅

概要 [ ] 関口義明 は、で見かけたの少年たちを題材に 詞を書き、農家向け家庭雑誌『』の懸賞に応募、1位入選を果たした。 これを見たのにより化され、当時ほぼ無名の若手歌手だったが歌った。 1位入選作は大物歌手によってレコード化されるという触れ込みであったため、関口は落胆したが 、歌手を志してから単身上京した井沢自身の人生も重なり、発売後まもなく「」と呼ばれた集団就職者などから支持と共感を得て、の世相を描いた代表的ヒット曲となった。 いわゆるを中心に「心の応援歌」として多くの人々に勇気と感動を与えた楽曲であり、井沢の代表曲との呼び声も高い。 「あゝ上野駅」の累計売上は100万枚 を記録した。 オリジナルの音源はモノラルで、オリジナルバージョンの発売当初は途中の台詞は吹き込まれていなかったが、井沢八郎がテレビの歌番組に出演中に父が亡くなったことを知らされ、井沢本人曰く「間奏の途中で即興で、アドリブで入れちゃった」台詞が反響を呼んだために、後に台詞入りバージョンをレコーディングして改めて発売したという。 、から発売されたシングル「 あゝ青森」(RE-683)B面に、ニューバージョンが収録されている。 テイチクから発売されているに収録されているのは、オリジナルではなくこちらである。 12月、に「」号が運転された際、出発セレモニーで井沢はこの曲を歌い、駅長と共に「津軽」号の発車の合図をした。 には上野駅に歌碑が建立された()。 1月に井沢が亡くなると、『』(、2007年放送)で、追悼としてが歌唱した。 井沢の娘であるは、父の死後の記者会見で「『あゝ上野駅』は、パパの残してくれた大きな宝物。 だから、『あゝ上野駅』は私が歌い継いでみせます」と、宣言している。 『』では、井沢によって披露されたことはないが、の『』で出身のが歌唱した。 歌碑 [ ] 「あゝ上野駅」の歌碑 、元のや集団就職で上京した中小企業経営者らによる有志団体によって、上野駅広小路口前のガード下に「あゝ上野駅」の歌碑が建立され 、同年に井沢や作詞者の関口、、上野駅長、有志関係者ら約2,000人が参加して除幕式が行われた。 歌碑は高さ2. 6mで、や駅に降り立ち荷物を持ちながら歩く姿の若者達が描かれた板と歌詞のからできている。 上野駅界隈のとして広く知られるため、歌碑も観光名所の一つとなっている。 建立費用や維持費など計2,000万円は、ほぼで賄われたという。 には上野駅開業130周年を記念し、上記の歌碑から連なる13番ホームにおいてとして採用された。 その後、2016年11月1日に16・17番線の発車メロディー「Cielo Estrellado」と入れ替わり、現在は16・17番線の発車メロディとして使われている。 関連曲 [ ] すべて作詞・関口義明• あゝ上野駅(パートII)(霧島浩二)• あゝ上野駅平成バージョン(霧島浩二、峰しろう)• あゝ上野駅もう一度(亜理佐)• あゝ上野駅ありがとう(井沢八郎) - の上野駅18番ホーム(かつて多くの集団就職列車が到着した )廃止にあわせて、発売された。 あゝ上野駅いつまでも(星次郎) 脚注 [ ] [].

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